名簿を入手した経緯

家系図をつくったり、家族のルーツを調べるのに凝っている時期がありまして、その流れで申請をしてみました。

厚生労働省の公式ページでは、旧ソ連に抑留された方々に関する資料の写しを申請する方法が案内されています。

これらの資料は個人情報を含むため、抑留されたご本人またはご遺族であることの確認が必要になります。申請には、所定の申請書と必要書類を揃えて提出する必要があります。詳細な手続きや申請書のダウンロードについては、以下の厚生労働省のページをご参照ください。

👉 ロシア連邦政府等から提供された資料の写しの申請について(厚生労働省)

 

申請すると3か月程度で、ロシア側の名簿の原本と翻訳した原稿、日本軍の名簿情報が送られてきます。

祖父について

田窪 數好(かずよし)

愛媛県今治市伯方島生まれ
1923年10月10日-1989年に肺炎にて死去
抑留期間1945年-1948年
帰還後は海運業を営む

シベリア抑留のことはほとんど話さなかったそうですが、じゃがいもだと思って拾ってみたら、馬の糞だった、というエピソードを話されていたそうです。

祖父に抱かれる0歳の僕。(1985年7月)

祖父との数少ない記憶として、幼稚園の頃にお見舞いに病院に行ったことを覚えています。
ベッドに伏した祖父が話しながら、おならを何度もするので、ケラケラと笑いあった思い出があります。

ロシア語の抑留者名簿

筆記体がかなり読みづらいです。ロシア人の友人数人に見せましたが、ほぼ判読できませんでした。祖父の治療記録のようです。

体調や体温や食事の様子や記されているようです。このように書き残しているのを見る限り、割と丁寧に診察してくれていたのではないかと推測されます。

翻訳された名簿と軍票情報

ロシア側が管理していた名簿の主要な部分を厚生省の人が翻訳してくれています。

どのあたりの収容所にいたかを地図で示してくれています。

また、関東軍が保持していた名簿情報もくれました。

いつどの船で帰ってきたかもわかります。

考察

僕は専門家ではなく、情報も不確かなものもあり、推察も多くなりますので参考程度にしてください。

名簿の表紙。

第5収容所というのはハバロフスクの収容所です。

収容所到着日が1945年10月8日とありますが、終戦から2か月もかかって輸送されたんですね。

出生地の愛媛県越智郡はいまは今治市になっています。

職業は農業とありますが、出生地の伯方島は「はかたの塩」が有名で製塩業や造船業、海運業が盛んです。
島の7世帯に1世帯が村上姓で村上水軍ゆかりの地でもあります。

祖父は22歳で召集されたようです。

部隊の歩兵282連隊というのは満州の間島(現在の吉林省)にいて、新兵が多かったそうです。

役職に狙撃兵とありますが、射撃の成績が優秀な場合、精度の高い銃を与えれるそうです。

市役所から取り寄せた戸籍を見る限り、僕の祖父の兄弟は男6人女1人だったのですが、あえて上の兄弟の動向は伏せていたのでしょうか。
親戚とは疎遠だったため、他の兄弟たちがどの戦地に行っていたとか、詳しい話は伺えていません。

父親の資産に「牛」とあるのに時代を感じます。

幸い裁判事や取り調べなどのトラブルには巻き込まれていないようです。
祖父は真面目で実直な方だったと伺っているのでうまくやってたんだと思います。

当時からいろいろなワクチンを処方されていたようです。

人物描写が多民族国家らしい項目ですが、日本人が相手だと見分けが難しそうです。

1948年3月24日に入院とありますが、木を切る作業をしていてケガをしたそうです。

厚生労働省の翻訳係の人が祖父の足跡を示す地図を添付してくれてました。

フルムリ地区の収容所⇒スタルト村の病院⇒コムソモリスクチクの病院と移動していたようです。

引揚時の日本側の名簿です。

1948年5月20日に出発したそうなので、日本上陸まで11日かかっているんですね。

階級が二等兵から上等兵になってます。

舞鶴で引き揚げた際には、いろいろな手続きがあったそうですが、ロシアでの出来事は口止めされていたようで真面目な祖父は抑留体験を人に話さなかったのかもしれません。

AIで作った若かりし頃の祖父
AIで作った祖父が伐採作業をする様子

限られた情報しかないとはいえ、当時の詳しい情景や背景が伺えました。

祖父の苦難や感情などの詳しい事はわからないとはいえ、様々な人と関わりながら生き抜いてくれたんだな、と子孫としての畏敬の念を抱かせてもらいました。

祖父が体験したシベリアの土地を訪れて、その空気や寒さをいつか体験してみたいと思います。

どの部隊がどんな作業や戦闘があったかも調べてみたいのですが、なかなか詳しい資料が見当たらず難儀していますが、見つかったら報告します。